わたくしは、いつも好きなことをして、
何でも自由にやって、
幸せ感たっぷりで生きているけど、
たまに、モヤモヤしたりイライラしたりすることがある。
街を歩いている時や、車を運転している時など、
ちょっとしたことで、そんな感情が芽生える。
このモヤモヤ、イライラの原因は何だろうかと、いつも考えるのだけど、
良く分からない。
『自分の現実は、自ら創造している』
それは知っている。
自分が目にする世界は、自分が創造している世界だから、
何らかの原因があるはずなのだけど、
なぜ、こんな現実を造り出しているのかが分からないのだ。
たとえば、車を運転中、乱暴な運転をする車に割り込まれた時、
瞬時にイラッとするけど、
ではなぜ、こんなドライバーを自分の世界に登場させているのだろうか?
自分はのんびりマイペースで走っている。
決して、他の車と競い合っていない。
なのに、なぜ、こんな人間を自分の世界に創造させているのか?
それが、まったく分からない。
わたくしにとっては、こんな人間はいらない。
わたくしにとっては、いらない人間なのだ。
いらない人間を、なぜ自分の現実に登場させているのか?
何かのメッセージが含まれているのだろうか?
自分の中に潜んでいる、競争心だとか、対抗心が、
このような現実を造り出しているのだろうか?
人間はそれぞれ、自分の思考で判断して行動している。
しかし、この『思考』というものは、とても厄介なものだ。
何か忘れたことがあり、それを思い出す時は、この思考が役に立つ。
毎日のルーティン、スケジュールなども、
思考によって管理されている。
ふと考えて、
あぁ、そうだそうだ、
と、忘れていたことを思い出した時、
思考は便利で、役に立つツールである。
でも、人間には、思い出したくないこともたくさんある。
ちょっと前のいざこざ、
数年前のトラブル、
中には、数十年も前の嫌な出来事も、
思考は記憶している。
それを、何かの拍子に、
ふと思い出す時がある。
何のために?
何のために、そんな昔の出来事を思い出す必要があるのだ。
思考は役に立つ。
しかし、思考を全部信じてはいけない。
思考は自分ではないのだ。
自分というコンピューターが記録している、単なるアーカイブに過ぎない。
思考を、自分だと錯覚しているうちは、
いつまでも、わけの分からない出来事で翻弄される。
いつまでも、わけの分からない現実を創造し続けるのだ。
『思考は自分ではない』
そこからスタートしなければ、この厄介なスピリチュアルワールドは歩けない。
この本にも詳しく書いてある。
↓
気になる人は参考にしてください。